明治時代以降 近代の瀬戸の窯業 |
鎖国の時代が終わり明治時代になると、海外から様々な物と文化が怒涛の如く押し寄せて来ました。そして、時の明治政府は『富国強兵』の方針を打ち出し西欧諸国に対抗しようとしました。
明治政府は様々な産業の振興に力を注ぎ窯業産業の振興もその中にありました。そして1873年(明治6年)のウィーンで開催された万国博覧会にも瀬戸の陶磁器が出品されたのです。万国博覧会では『瀬戸物』は極めて高い評価を得て『瀬戸』の名は海外にも知られるようになり、同時に海外からの注文も増加するようになりました。
1876年(明治9年)、東京で輸出貿易を志していた森村市左衛門等によるノリタケの前身『森村組』がニューヨークに雑貨店を開き、瀬戸の陶磁器を大量に輸出していたことなども重なり1883年(明治16年)には、瀬戸で製造された陶磁器の70%以上が輸出されていた事からも『瀬戸物』の人気の様子を知る事が出来ます。 |
当時の陶磁器焼成時に使われていた窯の主流は登り窯でしたが、1902(明治35年)年には燃料コストが非常に効率的・経済的な石炭窯が開発され、轆轤(ろくろ)の動力化や石膏型による成形技術の開発、転写紙の発明と転写技術の導入が行われ、大量生産化がさらに進み近代化も著しく進歩しました。
1914年(大正3年)に第一次世界大戦が開戦しました。
ヨーロッパ諸国が参戦するとヨーロッパの陶磁器産業は大きな打撃を受ける事になります。マイセンなどドイツの装飾品や置物は欧米諸国で非常に人気の高いものでしたが、それらの商品が生産されなくなった事により日本の瀬戸で作られた陶磁器が着目される事になりました。
日本では第二次世界大戦の激化によりノリタケのボーンチャイナを除く一般磁器の製造は政府の令により中止されましたが、瀬戸の陶器の生産は石炭の代わりに亜炭(石炭化が充分でない水分や不純物を多く含み得られる熱量が小さい炭)を使用しながら日常生活用の陶器や金属製品の代用品を製造するなどして終戦を迎える事になりました。瀬戸は戦争による被害が比較的小さかったこと、戦後の物資の不足による需要の急激な増加などで、瀬戸と瀬戸の窯業は急速に復興する事が出来ました。また輸出が再開されるようになると、かつて人気の高かった装飾品や置物などが盛んに輸出され、さらに洋食器も輸出されるようになりました。このような厳しい状況の戦中戦後を乗り越えて、瀬戸と瀬戸物は高度経済成長時代を迎えさらに発展することになりました。 |
瀬戸では和食器の他、洋食器などの陶磁器も多く生産していますが、現在の瀬戸の窯業はそれまでの瀬戸焼の枠を超えたタイルや置物などのインテリアを生産しています。瀬戸と近隣の地で産出される良質な陶土と長い年月と経験に蓄積された技術が、食器だけでなく幅広い分野に応用され世界的にも注目されているようです。さらに近年、ファインセラミックの技術が目覚しく進歩し海外から注目されています。 |