清水焼・京焼の歴史は桃山時代の茶の湯の隆盛発展と、千利休の好みであった楽焼茶碗まで遡ります。794年に平安京が日本の首都と定められた古い歴史を持つ京都ですが、意外なことにそれ以前の京都には土器を除き陶磁器らしい焼物はありませんでした。
そして、現在の一般的な清水焼・京焼には当時の楽焼は含まれず、江戸時代初期の陶工である野々村仁清の流れを汲むものを言います。
野々村仁清の作風は豪華絢爛な色絵磁器が大きな特徴で、他の京都の焼物に大きな影響を与え、清水焼・京焼の多くの作品が多彩な形状と華やかな色彩の色絵の物に変化しました。その後、江戸時代に尾形乾山と弟の尾形光琳が野々村仁清の作風を発展させました。その江戸時代初期から中期にかけて作られた京都の焼物を古清水と言っています。
野々村仁清、尾形乾山、尾形光琳、さらに九谷焼に多大な影響を与えた青木木米(もくべい)等はそれまでの中国や朝鮮の模倣から独自の純和風の焼物を作り出したことが、現在の清水焼・京焼の源であることは間違いありません。そして、清水焼・京焼は瀬戸や美濃といった日本の大きな陶磁器の産地と焼き物に大きな影響を与えました。その京都の焼き物文化と技法は脈々と今日まで受け継がれて、他の芸術、特に書・画・蒔絵などに影響を受けた清水焼・京焼の陶工の精神も受け継がれています。 |